昔むかし・・・。
1860年、スウェーデンの南部オスビー郊外で、イヴァー・ベンクトソンは生まれました。1870年、イヴァーが10才になったある日のこと、最愛の父を亡くしてしまいます。まだあどけなさの残る少年イヴァーは、家計を助けるために農場で刈取機の運転士として働かなくてはなりませんでした。将来大工になることをずっと夢見ていた少年にとって、それは辛い仕事でした。それでもイヴァーは自分の夢を諦めることなく、農場で稼いだお金のほとんどすべてを家族に渡しながらも、「いつか夢が叶う日のために」と、人知れずわずかなお金を懸命に貯めはじめたのでした。
イヴァー少年と77クラウン
1878年3月のある日、イヴァーの友人オロフ・ペルソンがボサルト村から訪ねてきました。オロフはデンマークで、木切れで作ったバスケットを売っていましたが、この先の旅費に十分なお金を持ち合わせていませんでした。そこでオロフは、もしもイヴァーが貯めた77クラウンのお金を彼に貸し、同時にバスケット売りを手伝ってくれたなら、そのもうけの半分をイヴァーにあげることを約束します。ふたりは一緒にバスケットを積んだ木製カートを押しながら、デンマークに向かうボートに乗るためにマルメまでの125kmもの道のりを歩きました。そうしてデンマークへ渡った彼らは2ヶ月の間に2,000個ものバスケットを売り、それぞれが100クラウンを手にしたのです。これはイヴァー少年のはじめての旅であり、この旅が彼がもつ人生への夢を目覚めさせたのです。
イヴァール、会社を起こす。
1884年、イヴァーはシッサという女性と結婚し、スウェーデン南部オスビーの郊外にある小さな村ボールトへと移り住みます。ふたりが暮らしはじめたのは小さな農場でしたが、何と言ってもそこには、バスケットづくりのための小さなワークショップがありました。その後イヴァーはバスケットだけではなく、村やその周辺で生産されていた鍛鉄やキッチン用の工芸品などを買い付けてともに売るようになります。また彼は、ドイツの都市ブレスラウ(現在はポーランド)から石版画を輸入し、他の商品とともにデンマークで売ったのです。 それでもイヴァーにとっては木切のバスケットが一番大切でした。
「ハンドルが“売り”のバスケット」
1890年、イヴァーは初のカタログを作ります。そしてデンマークだけではなく、スウェーデン北部へ次々と商品の販売先を広げていきました。イヴァールの妻シッサとこどもたち、3人の息子と1人の娘は家のワークショップで、イヴァーが買い付けてきたバスケットのハンドル(柄の部分)を木切れを使ってで補強しました。これによってバスケットは以前よりずっと長持ちするようになり、イヴァーは「ハンドルが“売り”のバスケット」というスローガンを掲げるようになります。イヴァーは彼のバスケットに「ボールトのイヴァー・ベントソン
バスケットファクトリー」のラベルを貼りはじめます。BRIOがフォーカスする“クオリティ”への信念はこうしてはじまったのです。
イヴァー、オスビー村へ
1902年、イヴァーとその家族はオスビーへと移り住みます。それは妻シッサのアイデアでした。シッサはオスビーの村にある鉄道を使えば、お客さんたちとイヴァーの距離がぐんと縮まることに気付いたのです。オズビーにある森林地帯は豊かな森林に恵まれています。イヴァーたちは、自分たちのような貧しいバスケット職人にオスビーの中心に土地を持つことはできないだろうと考えていました。結果、イヴァーはオスビーの中心から若干はずれたエリアに土地を得ます。現在BRIOが本社を構えるオスビー中心の土地は、イヴァーが後になって手に入れたものです。
イヴァー、おもちゃの販売を始める
その後イヴァールの会社は成長し、カタログに載せる商品の数も増えていきました。1907年になるまでにはそのリストは170アイテムにのぼり、イヴァーはおもちゃの販売も開始します。一番人気の高かったのは「ゴインジェの馬」と呼ばれる木馬でした。
オスビーのイヴァーソン兄弟
オスビー周辺の森林地帯には数多くの裕福な人々が住んでいましたが、ほとんどの住民は、皆貧しい暮らしを送っていました。1840年から1930年までの間、実に100万人以上のスウェーデン人が北アメリカに移住したのです。その多くが貧しさから逃れ、大西洋の向こう側に未来があることを信じていたのです。そんなある日、イヴァーとシッサは、長男ヴィクターと次男アントンから、彼らもアメリカへの移住を考えていることを聞かされます。イヴァーとシッサはいったん気を落としますが、シッサは息子たちをスウェーデンに引き止める妙案を考え出したのです。彼女のアイデアとは、息子たちに会社の経営を担わせることでした。そうして、1908年、イヴァーとシッサは正式に彼らの会社を3人の息子たちヴィクターとアントンとエミルに継ぎ、その翌年、息子たちは「The
BRothers Ivarsson Osby(オスビーのイヴァーソン兄弟)」の名で新しい会社を設立したのです。
新時代の到来
会社は3人の息子たちによって大きく発展していきます。「お金は稼いでから使う」という考えがイヴァーのモットーでしたが、息子たちは、借りた資金を基にドイツで商品買い付けを行うという、別の手段を選びます。そうしてBRIOは著しく成長していったのです。取り扱い商品の数も劇的に増えていきました。1909年にはカタログの商品数は999アイテムにまで膨らんだのです。そして1912年までにその数はなんと約3倍の2700アイテムとなります。当時BRIOは10人の従業員を雇い、155,000クローネ(約2325千円)の取り引きを行うまでに成長していたのです。
豊富な商品数
BRIOにとっておもちゃは永久不滅のアイテムではあったものの、当時彼らは、ガラス製品や陶磁器、生地や歯磨きブラスに至るまで数多くの商品を取り扱っていました。1920年代に入ってまもなく、BRIOはドイツからベビーカーを輸入します。しかし、戦後とあってベビーカーの供給は不足していたため、1935年、BRIOは自らオスビーにて生産しはじめました。1937年、BRIOは有限会社となり、従業員が150人、売上はおよそ4300万クローネ(645百万円)に大きく膨らみました。
イヴァー、その後
イヴァーのような会社創立者にとって、息子たちの影となりきることは、そう容易ではありませんでした。しかしイヴァーは会社の所有する建物の管理や、新しい建物建設や改装などにおいて重要な責任を負うことにより、そこに彼自身の新しい役割を見出したのです。こうして、彼は実際には1948年にこの世を後にするまでずっと会社の運営に関わりつづけたのです。
シッサ、その後
シッサはイヴァーより先にこの世を去ります。イヴァーたちにとってシッサは素晴らしい女性でありつづけました。それゆえにイヴァーは彼女の担ってきたさまざまな業績を惜しみなく称えつづけたと言われています。
BRIOは今
その後、ヴィクター、アントン、エミルの3兄弟は、会社の経営を続けます。アントンの息子レナートは1952年から1978年の間、社長を担い、BRIOを国際的な企業へと発展させました。そのレナートの妻インガーもまた、当時の会社発展(特にBRIOで1番人気商品であるおもちゃの分野)において非常に重要な役割を果たしています。そして、レナートとインガーの息子であり、イヴァーの孫にあたるのダグとベングトが、2004年第3四半期、プロヴェンタス社の傘下にはいるまでBRIOのメインオーナーを務めました。
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