< ネフ社の歴史 -1958年以前-
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1926年
創設者 クルト・ネフ(Kurt
Naef)氏が生まれる
スイス、フラウエンフェルトに農業を営む両親のもとで、自然に囲まれた子ども時代を過ごす。
1942年
家具製作の現場で実習を受けながら平行して通ったSchreiner(=木工)の専門学校を卒業。
その後バーゼルの美術工芸学校、アムステルダムの美術学校でインテリアデザイナーの勉強をし、大手の家具メーカーで仕事を始めたネフ氏は、伝統的な家具に囲まれて仕事をする中で、逆に近代的な家具
の美しさに気付き、自分の気に入った物を扱ったりデザインしたいという思いを強くする。但し、この 工場では後のネフ社の経営に役立つ量産のシステムの工程や組織を学ぶ事になる。
1954年
ネフ氏は現在のネフ社の前身、家具とインテリアの個人会社ネフ社を設立。
当時スイスでは全く新鮮だったデザインの美しい北欧の食器(ダンスク等)の輸入も始め、それが成功 しデザインにこだわる多くの顧客も出来た。ネフ氏自身がデザインした家具や木製の器などの小物もその店で販売。
1958年
ネフスピールの誕生。
顧客の一人が、「世の中には、美しい食器や家具があるのに、美しい玩具がない。この店にふさわしい玩具を作るべき。」とネフ氏に助言。この事がネフスピールを世に出すきっかけとなった。作る時点で
ネフ氏は、子どもに与える影響や、量産の事など全く考えず、自分の気持ちのおもむくままに夢中で作 り上げたという。
リボンの形の新しい積み木「ネフスピール」はネフ氏の店のためだけにネフ氏の工房 で作られ、多くの人に求められた。
この事がきっかけとなり、ネフ氏はやがて家具、インテリアの世界から玩具の世界に方向を転換する。 やがて小さい自分の工房から馬小屋を改造した工場が出来、本格的な玩具作りが始まる。ベビーボール、カウリングなどが、この工場で生まれた。彫刻家のアントニオ・ヴィタリ(Antonio
Vitali)氏の玩具の一部もこの工場で作られ、氏の工房でろくろを駆使して生産された動物などと共にネフ社の初期プログラムに加えられ世に出された。しかしヴィタリ氏との仕事は短い期間にしか続かなかった。

ネフスピール
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< 玩具メーカー ネフ社の発展 > |
1960年
ニュールンベルグの国際玩具見本市に初出展。
ネフ氏の期待に反して、一部の人の目を引いたものの、斬新すぎて業界の人達には理解されず、その後しばらく経営的に厳しい年月が続く。しかし、辛抱して毎年出展していくうち、ネフ社の玩具は、識者の間で評判になり、次第に世の中に広まっていった。特に米国のクリエイティブ・プレイシングス社(現存せず)の目にとまり、膨大な注文がもらえた事で、ネフ社は大きく飛躍し、社の基盤を築いた。
1967年
ネフ自社ビルの建設。
自分自身の工房から馬小屋を改造した工場。その次のステップとして、ついに工場を併設した自社ビル の建設が可能になった。建設に当たり、ネフ氏は近代的で美しい工場を建てたいと考えた。当時も玩具業界は銀行にとってあまり歓迎される融資先ではなかったため、資金には限界があった。ネフ氏は、
色々な業種の工場を見学し、どんな工場にするか模索した。ある日、自動車工場を見学している時、全部を自社工場で作るのではなく、それぞれの部品を得意なメーカーに下請けさせ、組み立てと仕上げをネフ社が責任をもって行えば良いということを思いついた。そこでネフ氏の工場建設計画は、すぐれたパーツを作ってくれる能力のある人達や、工場を探すことから始まった。
そしてカッティング、研磨、パーツの接合、組み立て、塗装、セッティングが主な作業となる近代的で美しい、工場と倉庫を併設した本社ビルが完成。この近代的な工場は2003年Zofingenに工場が移転するまで、ネフ社のシンボル的な存在として活躍、35年の間に
多くのネフ商品を世に送り出した。
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< デザイナー、ペア・クラ−セン(Peer
Clahsen)
との出会い > |
1967年
自社工場建設の年、ネフ社はペア・クラーセンに出会う。
仲介をしたのはクラーセンの作品、3DM(スリーディメンション)。この立方体のゲームは早速ネフ社で製品化され評判になった(現在廃版)。ネフ氏がデザイナーから、経営者の立場に変わっていく最初の兆しがこの二人の出合いにあったといえる。
1969年
クラーセンのキュービックスが世に出る。 ネフの代表的な商品として、今日でもベストセラー。日本でも美術の教科書に何度か取り上げられた。このキュービックスの誕生は、ネフ社が優れた技術を持つ、
世界に類のない近代的な構成玩具のメーカーとして社会に認知されるきっかけとなる。クラーセンにと ってもネフ氏との出合いは大きな意味をもった。彼は次々と作品を持ち込み、ネフ氏も彼のデザインを取り上げセラ、ダイアモンド、ドリオなど、多くの傑作を商品化した。そしてクラーセンだけでなく、
多くの世界のデザイナーが、ネフ社での製品化を目指して、作品を持ち込む方式が徐々に確立されていくことになる。
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< ネフ日本市場へ >
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1971年
アトリエニキティキを通して、ネフ社が始めて日本の市場に登場。 現在も生産されているネフスピール、リグノ、キュービックス、ベビーボール、オルナボ、ひも通しポニー等が日本の子ども達の手に渡った。
1974年
ネフ氏初来日。
ネフ夫妻、ネフ社20周年の記念旅行で日本に。ネフ氏を迎え、COLLECTION<NAEF-SPIEL>モダンリビングの中の木のおもちゃ展を、当時のアルフレックス(東京・青山)で、日本初のネフ社単独の販売展示会として開催。以後、親日家となったネフ氏は、その後7回も日本を来訪。そのうち3回は創作玩具公募展委員長として現代玩具博物館に招聘されての来日。
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< バウハウス作品復刻版の製作 >
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1977年
20年の間にその正確な作りと塗装技術で世界一の木製玩具メーカーとして認められたネフ社はベルリンのバウハウス資料館の依頼を受け、バウハウス玩具の復刻版製作を始める。 このシリーズはバウハウスに興味を持つ世界中のファンや美術館の手に渡り、ネフ社の経営に寄与。また資料館にも多額のライセンス料が入る事となった。その後も多くのデザイナーが作品をネフ社に持ち込み、ネフ社はその中からネフ社のプログラムに適した玩具を選択し、商品化までのコーディネートを引き受け、品位のあるデザイン性にも優れたネフの商品を生み出し、次々と世に送りだした。子どものための玩具、大人も魅了する構成積木、レベルの高いパズル、プレゼント用品、プレミア用品等その範囲は広い。ネフ社に作品を持ち込むデザイナーは次第に国籍を問わず多くなり、日本からも何人ものデザイナーが自信作を送り込んだ。
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1980年代
この時期はネフ社にとって充実した実りの多い時代であった。ネフ氏は自社の商品に加えて他社の商品を選び、ネフコレクションとして販売した。 その選択眼は鋭い反面、ユーモア感覚に優れ、選択の分野も広く、それらがネフの自社商品と並んだ時突然美しく魅力的に見え、いつも周囲の人々を驚かせた。「コストがかかる自社の製品の製作を続けるために、ネフコレクションの販売は不可欠」とネフ氏は説明していたが、ネフコレクションが業界に与えた影響も大きかった。ネフ氏がその製品に新しい命を吹き込んだかのように、ネフコレクションで選ばれた商品やその類似品が、翌年の見本市から他社のブースで活躍することも多かった。
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< ネフ株式会社の設立〜ツォフィンゲンへ移転 > |
1989年
ネフ株式会社の設立。
60才を迎えた頃から、ネフ氏は後継者を見つけ、ネフ社の経営から身を引きたいと考えるようになる。 会社経営の重責からはなれ、本来やりたかった事、例えば長く離れていたデザインの仕事に集中するための時間を持ちたいと考える。個人会社のネフ社を株式会社にし、経営に口出しをしないようにと、株を持たず、商品開発と販売のアドバイザーとして、期限を決めて顧問としてのみ関わる事を自分に課した。1989年ネフ株式会社が設立されるのを機にネフ氏はやりたかった事の一つ、自分の経営する玩具店「PLAY
ON」* をネフ氏が長く住んでいた、ネフ社の近くの小さな街、ラインフェルデン(RHEINFELDEN)にオープン。
その後自身は居をフランスに移す。大きな庭のある古い美しい邸宅の一角に、念願の工房も作った。
(* PLAY
ON は1998年に地元の企業に譲渡。現存せず。)
1995年
ネフ株式会社の顧問としての契約期間が終了。
ただ恒例の玩具見本市スタンドではこの後もネフ社に請われ顧客を暖かく迎えるネフ氏の姿があった。
1997年
ネフ株式会社の初代社長と工場長が社から身を引いた時点で、ネフ社の要望で再び顧問としてネフ社に関与することになる。
2000年
引退後はネフ社だけでなく、イタリアやドイツの玩具メーカーで作品を商品化し、デザイナーとして充実した日々を過ごしている。 7月に芦屋市立美術博物館主催の『クルト・ネフ/デザインとおもちゃ』展が開催された。クルト・ネフ
氏はこの展覧会で行われた講演会のために来日。このネフ展には1970年〜2000年までのアイテム約300種、500余点が展示され、会場全体に広がる明るい色彩が、期間中1万人をこえる来場者を楽しませた。この芦屋でのネフ展は、同年4月、岡山の現代玩具博物館が、ニキティキの収集した、ネフ社の30年来の玩具を一堂に展示した『スイス・ネフの世界』展に触発された企画。日本の公共の美術館で開催されたはじめてのネフ展となった。
2002年
4月にクルト・ネフ氏がデータベースアーカイブ作成のため来日。
名古屋芸術大学での展覧会関連企画として玩具デザイナー樋口一成氏との対談『Naef Design』が行われた。
9月、ネフ社はクルト・ネフ氏の義息、エンゲラー(Hans Peter Engeler)氏を中心とした新しい経営陣を迎える。フランスからスイスに居を戻していたネフ氏も改めてネフ社の運営に力を貸すこととなった。
2003年
4月、本社、工場がツォーフィンゲンに移転。
5月にセラ、キュービクスのデザイナー、ペア・クラーセン氏が『ペア・クラーセンの世界―立方体の7つの窓』関連企画(展覧会、講演会、ワークショップ)のために初来日。展覧会は目黒区美術館区民ギャラリーと女子美アートミュージアムにて、講演会は目黒区民センターホール、武蔵野美術大学、女子美術大学にて、また各大学で学生のためのワークショプも行われ、学生や、ネフファンが数多く訪れた。なお今回の『ペア・クラーセンの世界―立方体の7つの窓』展の関連事業は、目黒区美術館・女子美術大学・武蔵野美術大学の3者が主催となり、デザイン教育の一環として企画された。
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< 2006年〜 > |
2006年
クルト・ネフ氏が80歳を迎えるにあたり、スイスの出版社より氏の初めての美術書「Kurt Naef - The Toymaker」が発刊。この出版を記念し、スイスと日本で展覧会を開催。
2006年 11月30日夕刻(日本時間12月1日早朝)
クルト・ネフ氏はスイスのZofingen市の病院にて永眠。(享年80)
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